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心理臨床系教員・院生の「お仕事」エンカウンター・グループと本研究室若手の心理臨床家をどう育てるか私の心理臨床私のグループ・アプローチの実践と研究


私の心理臨床の道程─ロジャースをバックボーンとして

 

 私が心理臨床の道をめざして大学に入ったのは1966年であり、もう丸40年を経過した。それで本稿では自分のこれまでを振り返るとともに、今後やりたいことについて述べてみたい。本稿が、心理臨床の道を歩み始めた若い人達になんらかの刺激や参考になれば幸いである。

 

 1.私が心理臨床家をめざすようになった動機

 中学時代、高校時代の私の将来の職業イメージは、「弁護士」になることであった。当時のテレビで弁護士が活躍する番組があり、憧れていた。それで、大学は法学部に行きたいと思っていた。しかし願書を提出する直前に受験雑誌で、九州大学教育学部には日本で初めてカウンセリングという科目が置かれているということが書かれているのを読んで、私は心を惹かれた。そして悩みに悩んだ末、<法律>で人を援助するより、<心>で人を援助することをしたいと考えて、教育学部を受験することにした。

 

 2.私が九州大学で学んだ時期=1966〜1979年:18〜31歳

 1966年4月に九州大学教育学部に入学した。専攻は教育指導学(カウンセリング)を選んだ。当時の教授は池田数好先生、助教授は前田重治先生であった。私の学部時代は、学生運動(権力を持つ者がそうでない者を圧迫することへの学生の反撥・抵抗)が盛んであり、学生が大学の研究室・教室を占拠し、授業はストップし、たびたびの学生集会が行われ、最後には機動隊が導入されるという状況の中で、私もいろいろ考えさせられた。そのような中でカール・ロジャースの来談者中心療法(人間の成長力への信頼、態度三条件:自己一致、無条件の肯定的配慮、共感的理解等)に関する本を読み、権力で人を押さえつけるやり方ではなく、人の主体性・自由を尊重するやり方があるのだということを知り、身体が震えるほど感動した。それで私は来談者中心療法が好きだと前田先生にお話したら、当時教養課程を担当しておられた村山正治先生を紹介された。

 それで1970年4月に大学院に入学してからは村山先生の指導を受けるようになった。村山先生とお会いしてお話をお聞きすると、来談者中心療法の流れではエンカウンター・グループの実践が盛んになっているとのことで、私もそれに興味を持つようになった。エンカウンター・グループは、人の主体性・自由が尊重され、安全感・信頼感が大切にされるグループ体験であり、そのようなフィロソフィーと方法は、学生運動の中で権力によって押さえつけられを体験してきた私にとっては、とてもしっくりするものとなった。そして、1970年からエンカウンター・グループの実践と研究を始めて、1972年の修士論文もこのテーマで書いた。1974年にはロジャースらが主催するエンカウンター・グループを中心とする17日間のラホイヤ・プログラムに参加した。そこで初めて本の上でしか知らなかったロジャース(当時72歳)と直接に出会い、ハギングし、話を聞いたりしたが、彼は「本で書いているとおりに生きている人(人の主体性・自由を尊重し、態度三条件を体現している人)」であるということを強く感じた。そしてますます彼の考えは私の中にしみこみ、彼が好きになった。(ちなみに現在に到るまで36年以上にわたってエンカウンター・グループを続けている。また1998年にはこのテーマで博士論文を書いた。)

 他方、個人カウンセリング(来談者中心療法)については、(当時は学内実習施設はなかったので)修士1年の4月より心療内科の病院で研修を受けることになった。心身症者のカウンセリングを任され、一生懸命に取り組んだ。やがて修士2年の3月(1972年)より某精神科の病院とクリニックで、神経症者、うつ病者、統合失調症者等のカウンセラーとして働くことになった。(ちなみにこの病院とクリニックは現在まで継続して働いており、もう丸34年を経過している。)。ロジャースも統合失調症者のカウンセリングに取り組んだけれども、あまりうまくいかなかったようであるが、私は来談者中心療法で取り組んで30年以上にわたってなんとかやれているように思う。

 大学院を終えてから1975年4月に助手になった。そしてこの年に同じ助手の増井武士先生と一緒に、学内実習施設としての心理教育相談室の開設に携わった。そしてここが、学内の心理臨床の場となった。助手の任期が切れてからは研究生となって、学内外で心理臨床活動を続けた。

 

 3.私が九州大学を離れていた時期=1979〜1996年:31〜48歳

 1979年4月より31歳でようやく久留米信愛女学院短期大学で「定職」に就くことになった。そして1980年4月より福岡大学に移った。短大と大学では主に教職課程を担当した。

 心理臨床活動としては、一方では基本的に健康な人(一般人、企業人、学生、教師、看護師、保育士等)を対象とするエンカウンター・グループの実践と研究を着々と続けた。それとともに、某精神科の病院では1987年4月より統合失調症者を対象とするエンカウンター・グループ的な集団精神療法(心理ミーティング)を始めた。(ちなみにこれは丸19年を超えて、約900セッションを重ねて、現在も継続中である。)。当初は、統合失調症者にきわめて構造がゆるいエンカウンター・グループ的な集団精神療法を実施することは非常識だと攻撃されることもあったが、臨機応変が苦手な統合失調症者であるだけに、(逆療法的に)臨機応変の連続であるエンカウンター・グループ的集団精神療法こそ必要だと考えて継続してきた。20年ちかくやってきて、それは正しかったと思う。このような領域でもエンカウンター・グループが生かせるということから、改めてエンカウンター・グループのポテンシャリティの高さを感じさせられる。尚、ロシャースは、エンカウンター・グループを含めた集中的小グループ経験を「20世紀最大の社会的発明」と述べている。

 他方、個人カウンセリング(来談者中心療法)は某精神科の病院とクリニックで続けた。不適応レベル、神経症レベル、精神病レベルの様々な患者さんと面接を行った。

 やがて1988年4月より某大学の非常勤の学生相談室カウンセラーを隔週で4時間担当することになった。学生相談のクライエントは精神科領域の患者さんとは異なっており、ある意味で楽しい心理臨床活動となった。(ちなみにこれも現在まで丸18年を超えて継続中である。)

 さらに1993年5月より某高等学校の非常勤のスクールカウンセラーを隔週半日で担当することになった。この高校では不登校が非常に多く、子どもと保護者の面接をかなり多く行うことになった。(ちなみにこれも現在まで丸13年を超えて継続中である。)

 

 4.私が九州大学で教える時期=1996年〜現在:48歳〜59歳

 1996年4月よりはからずも母校である九州大学教育学部に迎えられた。九州大学は1996年度から指定大学院の第1号に認定されたし、2005年度からわが国で第1号の専門職大学院となったので、私の仕事は臨床心理士養成ということになった。

 教える立場にはなったが、心理臨床のことを教えるには教員は自分自身が心理臨床活動を<現役>として継続していることが大事だと私は考えているので、それまでの心理臨床活動は中止せずにすべて続けることにした。

 それで現在継続中の私の心理臨床活動は、(1)エンカウンター・グループの実践、(2)某精神科病院での個人カウンセリングと集団精神療法、(3)某精神科クリニックでの個人カウンセリング、(4)某学生相談室での個人カウンセリング、(5)某高等学校の相談室での個人カウンセリングとなっている。4箇所の個人カウンセリングのケース総数は約20ケースである。

 尚、九州大学を離れていた時期は主に自分の心理臨床活動だけをやっていればよかったが、教員になってからは自分の心理臨床活動以外に、学部生、大学院生の(1)臨床学習指導(講義、演習等)、(2)臨床実践指導(グループ・スーパービジョン、カンファレンス等)、(3)研究指導(卒論、修論、事例研究論文、博士論文等)も行うようになった。それらの指導において、私はエンカウンター・グループ的精神(自発性、正直・率直・素直)を大事にしているし、エンカウンター・グループの実習を積極的に取り入れたり、院生にはエンカウンター・グループのファシリテーター養成を行ったりしている。私のこのような姿勢と指導方法は、ロジャースの影響を受けているなあとつくづく思う。

 

 5.これからやりたいこと

 間もなく60歳を迎えるが、自分ではまだまだ元気だと思っているし、当分(とりあえず64歳の定年まで)は現在継続中の私の心理臨床活動は続けていきたいと思っている。

 それに加えてこれからやりたいことは次のようなことである。

 (1)私が尊敬するロジャースは60歳をすぎてからも、心理臨床家として引退することなく、主にエンカウンター・グループを用いて人間の業ともいうべき宗教・人種・政治体制の違い等による人間の緊張・対立の問題に積極的に果敢に取組んだ。その取り組みはある意味でドン・キホーテのように見えないこともない。しかし心理臨床家として、そのような人間の大きな社会的問題・課題に取り組むことについて、私の心はどうしても惹かれてしまう。そのようなことに取り組むには莫大なエネルギーがいるであろうが、いつの日かそのようなことをやってみたいという気持ちを持っている。

 (2)次にやりたいことは、心理臨床活動そのものの展開ではないが、私が蓄積してきた(ロジャースの影響を強く受けている)心理臨床活動の経験を(日本人の若い人達だけではなく)アジアの近隣諸国の留学生に伝えていきたいということである。現在、私の研究室の大学院生は18名いるが、そのうち7名は留学生(中国6名、台湾1名)である。これまでに博士課程を修了した留学生は3名(韓国2名、台湾1名)である。大学院入学を目指しての留学生の研究生は4名(中国3名、韓国1名)である。近隣諸国ではメンタルヘルスに関する関心が高まっているし、留学生達も自国の近い将来を見据えて、日本で心理臨床を学ぼうとしている。彼らの今後の活躍に私は期待している。

 

 6.おわりに

 私の心理臨床家としての在り方や人生については、ロジャースの影響が強い。彼の著書や論文をとおしてだけでなく、1974年には米国での、1983年には日本でのワークショップで直接にお会いしたことをとおして、私はいろいろなインパクトを受けている。断片的には前述してきたがまとめると、とりわけその人間観(人間の成長力への信頼:これは本だけでなく彼自身の発展し続ける人生そのものからも学んだ)、人間関係でもっとも大事なこと(態度三条件:これは本だけでなく彼の生きた姿にじかに触れることからも学んだ)は私の身にしみいっている。そしてそれは心理臨床家としての私にとってはもちろんだが、私自身の人生そのものにとってもバックボーンとなっている。 

 彼は晩年には、「靴を履いたまま死にたい」と言っていたが、実際に85年の人生の終わりはそのとおりとなった。私も彼のように最後の最後まで<現役>を続けられたらと思っている。

(木之下隆夫編『日本の心理臨床の歩みと未来』人文書院,116-121,2007より)

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